2014年10月03日

携帯の連絡は、待ってくれない


今日は、たまたま手にした本【「待つ」ということ】(鷲田清一氏箸、角川選書)の一番初めの冒頭の書き出し部分を読んで考えさせられましたので、紹介致します。





連絡が入る。それをどこでも受けとることができる。「切って」おいても履歴は残る。メールも残る。すると話は後回しにしても、とにかくなんらかの反応はしておかなければならない。一日反応しないと、なんだということになる。「切ってた」と弁解するにしても、理由が要る。だから切るときにも、「切ってた」とあとで言うときの言い訳をもう考えている。それがうっとうしくて、携帯電話を手放すひともいる。

そう、どこからでもすぐに。ひととひととの交信は時差をなくした。空間の隔たりというものもなくした。電子の媒体が可能にしたそういう時差と距離のなさは、しかし、近すぎることのもどかしさというものを、恋人たちに押しつけているのかもしれない。ままならぬ時間を心に織り込むこともなく、思いがつのればすぐに話しかけることで、かえって交通が透明になりすぎ、滑ってしまう・・・というような。





※利便性を追求して出来上がった携帯電話。

ここに書かれている問題は、なかなか抜け出せそうも、ありません。

SNSの中には、開封すると『既読』が付く機能があり、これも相手に知れるメリットとデメリットがありますね。

皆様は、どのようにお考えですか?



Posted by makishing at 07:17│Comments(0)
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