2009年03月29日

“私の課長時代”より



日本経済新聞が掲載している“私の課長時代”に、アサヒビール社長の荻田伍さんの記事が載っていましたので、御紹介致します。




荻田伍社長は、課長時代連戦連敗の会社が常勝軍団に変わる瞬間を体験しました。


当時、アサヒのシェアは二位のサッポロビールとほぼ同じ。しかし、会社のシェアは下がりっぱなし。全て他責にしていました。文句を言う割には、優秀な社員でも無かった、との事でした。


80年、38歳で仙台支店の販売第二課長に就任した時は、アサヒのシェアは10.7%と、入社当時の半分以下に下がっていました。


獲得した筈の注文を、他社に取られた事も何度かあります。当時の酒販免許は緩和されていないので、特定の取引先に深く食い込むのが、営業のスタイルでした。


飲食店は夜の商売なので、決済者と会う為に午前二時三時の営業は当たり前でした。成績の良い人は皆そうでした。


ある時、営業マン向け研修で心理学の先生に『この商品では売れないとか、この店は初めから駄目だとか、マイナスの思いを持っていると、行動も必ずマイナスになる。』と教わりました。攻略の為の知恵が自然と沸いた覚えがあるそうでした。


80年半ば、アサヒビールのシェアはついに10%を割り、後発のサントリーに抜かれるのも時間の問題となりました。“夕日ビール”とやゆされ、倒産の噂まで飛び交いました。関東支店の販売課長だった荻田伍社長は、いつも10円玉を詰め込んだ巾着袋を持ち歩いていました。


部下と顔を合わせるのは、毎週月曜のミーティングのみなので、毎朝ホテルの赤電話から10人の部下に電話していました。目標を共有する為でした。こちらから、架け橋を作らないと部下とのコミュニケーションは取れないからです。


業績は、どん底だが、82年に住友銀行副頭取から転じた村井勉社長の下で、静かな変革が始まりました。


村井社長は、全社的な品質管理活動を押し進めました。どうやったら、お金を有効に使えるか、どうしたらこの地区でシェアを取れるか真剣に考え、現場が活気づきました。


86年、アサヒは“コク・キレビール”が《スーパードライ》の前兆として出ました。これは、うまいと感じる「コク」苦みがさっと消える「キレ」を両立した新商品で、5千人の消費者の声を真剣に聞いて開発しました。


復活の原動力は商品だけでなく、関東支店長だった藤沢博恭さんが粘り強く叩き込みました。『あきらめず、しつこく、できるまでやる』この言葉を元に、一人一人の諦めない気持ちが、スーパードライと言う武器を爆発させました。


1987年に発売したスーパードライは、3年目で販売が1億ケースを超えました。日本ビール史に残る大逆転の始まりでした。荻田伍社長は、九州支店の第一営業課長でした。


それ迄全く相手にしてくれなかった店も、180度態度が変わりました。これまで、福岡ではアサヒ商品を置いてくれていた店は、1割位でしたが、スーパードライのお陰で大半に入りました。


しかし、あまりのヒットに今度は供給が追い付かなくなりました。売れない時代からアサヒを扱ってきた店にも迷惑をかける事になってしまいました。


深夜まで総出で御詫びと説明に回る状態が一年半程続きました。メーカーには供給責任がある事を痛感したそうです。


積極投資で品薄状態を解消したのは、村井勉さんの後任の樋口広太郎社長です。


89年に長野支店長になった荻田伍社長は、取引先の卸などから経営相談を持ちかけられるようになりましたが、損益計算書や貸借対照表の見方が解らず、通信教育で財務を勉強しました。営業マンは、単に売るだけでは駄目と言う事が解りました。


03年には、前年まで3年連続赤字のアサヒ飲料の社長に、荻田伍氏は就任、プロパー社員と徹底的に話し合ったそうです。


一丸となって頑張ったら『みんな、ありがとう』の思いを込め、一日の終わりに『飲みに行こうか』と声をかける、それが管理職の仕事の醍醐味だ、と言う事でした。





※会社が安定飛行になる為に、ヒット商品が、世に出てブレイクするには、その裏側で、血もにじむ長年の努力があるのですね。
  


Posted by makishing at 07:13Comments(4)