2010年05月30日
ミレーの絵画『落ち穂拾い』についての“ある噂”
先日、私のノートについて、講話をさせて頂いた企業の部長さんと、反省と対策の議題で、打ち合わせした時の、雑談の内容です。
ミレーの絵画『落ち穂拾い』は、ご存知だと思います。何人かの人々が、腰をかがめて落ち穂を拾っている、そしてバックには広い土地と空が広がっている、印象的な絵画ですね。
実は、ミレーは、あの絵を通して、ある教訓を投げかけているのだそうです。これを『ミレーの“落ち穂拾い精神”』と、言うのだそうです。
大地主が刈り取った、自然の恵み。これを、小作人達に分け与える方法論で、手渡しで一人ずつ渡すと偉そうに見えるので、わざと、さりげなく落としていく。それを拾っている図が、あの絵画なのだそうです。
たとえ立場が上でも偉そうにせず、さりげない優しさを持って、みんなと接していく事が、人間性であり、人間力。徳をどう高めていくか、という教訓が、あの一枚の絵の中に込められている、との説明でした。
あくまでも、噂の話との事でしたが、一枚の絵が、そうしたメッセージを贈っているのかと、絵心のない私が、ちょっと心を突き動かされた、ある日の話でした。
読んで頂いた皆様、ありがとうございました。
Posted by makishing at 00:11│Comments(8)
この記事へのコメント
おはようございます。
どんな組織でも。
会社・学校・病院 etc.
上に立つ者が、部下に対し独裁的になったら
人はついてこなくなりますね。
偉そうにしたら、ダメってことですね(*^_^*)。
世間を見渡せば、本当の偉人は
謙虚ですね。
どんな組織でも。
会社・学校・病院 etc.
上に立つ者が、部下に対し独裁的になったら
人はついてこなくなりますね。
偉そうにしたら、ダメってことですね(*^_^*)。
世間を見渡せば、本当の偉人は
謙虚ですね。
Posted by すーみんです(*^_^*)。 at 2010年05月30日 05:23
ミレーの“落ち穂拾い精神”は、初めて聞きました
営業・仕事でも、同じ様に言えるかもしれませんね
上から・・・ではなく、あくまで自分からできるようにさりげなくしてあげる・・
できたら、喜んであげる・・
上の立場の人の、度量でしょうか
今でも通じる教えだとも云えますね
営業・仕事でも、同じ様に言えるかもしれませんね
上から・・・ではなく、あくまで自分からできるようにさりげなくしてあげる・・
できたら、喜んであげる・・
上の立場の人の、度量でしょうか
今でも通じる教えだとも云えますね
Posted by 尾上 正 at 2010年05月30日 06:57
絵画に変な解釈をつけるものではないと私は思っています。それがたとえ“噂”であっても“精神”という表現が使われるなら、それは“解釈”をつけた側の“勝手な押し付け”であり、それを額面通りに受け止めることは“服従”を意味します。
絵画は見た瞬間に“自分で何か?”を感じるもので、決して妙な解釈や噂を前提に鑑賞するものではありません。ただただ・・・素直にどう感じるか?それが感動ならばそれでよし、悲しみと感じるのならそれでよし。
中世ヨーロッパの巨匠と呼ばれる画家の殆どは、当時権力者のお抱え画家であり、また神と人とは対等の立場であるとする(神に祈れば必ず願いが叶うという)宗教観で描かれた宗教絵画も単に(権力者が)民衆を押さえつける為に存在するものです。美術史をもっと勉強(私も含めて)しなければいけないと思います。
なので変な先入観で絵画を鑑賞することはやめた方が良いと思います。
ただ・・・自分の感ずるままに。モナリザの微笑は「永遠の謎」とするならばそれはそれで「永遠の謎」のままでいいのです。「落ち穂拾い」も単に遠近法を用いた当時の貧農家の姿を「ありのまま」に表現したものとして自分の中で感じればいいのです。解釈は人それぞれ。しかしそこに“精神”を持ち込むのはいかがなものか?と。。。
少し偉そうなことを書きましたが、そこに“精神”を用いるのであればそれは、あくまで“噂”にとどめておくのがいいと私は信じています。
絵画は見た瞬間に“自分で何か?”を感じるもので、決して妙な解釈や噂を前提に鑑賞するものではありません。ただただ・・・素直にどう感じるか?それが感動ならばそれでよし、悲しみと感じるのならそれでよし。
中世ヨーロッパの巨匠と呼ばれる画家の殆どは、当時権力者のお抱え画家であり、また神と人とは対等の立場であるとする(神に祈れば必ず願いが叶うという)宗教観で描かれた宗教絵画も単に(権力者が)民衆を押さえつける為に存在するものです。美術史をもっと勉強(私も含めて)しなければいけないと思います。
なので変な先入観で絵画を鑑賞することはやめた方が良いと思います。
ただ・・・自分の感ずるままに。モナリザの微笑は「永遠の謎」とするならばそれはそれで「永遠の謎」のままでいいのです。「落ち穂拾い」も単に遠近法を用いた当時の貧農家の姿を「ありのまま」に表現したものとして自分の中で感じればいいのです。解釈は人それぞれ。しかしそこに“精神”を持ち込むのはいかがなものか?と。。。
少し偉そうなことを書きましたが、そこに“精神”を用いるのであればそれは、あくまで“噂”にとどめておくのがいいと私は信じています。
Posted by タナカ at 2010年05月30日 11:12
すーみん様
訪問、ありがとうございます。
その通りですね。どんな組織でも、上に立つ立場が、偉そうにしたら、アウトです。
本当の偉人を見習っていきます。
ありがとうございました。
訪問、ありがとうございます。
その通りですね。どんな組織でも、上に立つ立場が、偉そうにしたら、アウトです。
本当の偉人を見習っていきます。
ありがとうございました。
Posted by 牧野眞一 at 2010年05月30日 13:19
尾上正様
訪問、ありがとうございます。
どのような関係でも、同じですね。上から目線は、厳禁ですね。
一語一笑つとむ先生の『さ・し・す・せ・そ』が、私の座右の言葉です。まさに、これかな、と思います。
ありがとうございました。
訪問、ありがとうございます。
どのような関係でも、同じですね。上から目線は、厳禁ですね。
一語一笑つとむ先生の『さ・し・す・せ・そ』が、私の座右の言葉です。まさに、これかな、と思います。
ありがとうございました。
Posted by 牧野眞一 at 2010年05月30日 13:31
タナカ様
訪問、ありがとうございます。“精神”→“勝手な押し付け”=“服従”なのですね。
絵画は、自分で何かを感じるもので、素直に感じる事だけで、いいですよね。
美術史をもっと勉強しなければいけないのは、この私です。
「落ち穂拾い」も解釈は人それぞれ・・・反省します。
ありがとうございました。
訪問、ありがとうございます。“精神”→“勝手な押し付け”=“服従”なのですね。
絵画は、自分で何かを感じるもので、素直に感じる事だけで、いいですよね。
美術史をもっと勉強しなければいけないのは、この私です。
「落ち穂拾い」も解釈は人それぞれ・・・反省します。
ありがとうございました。
Posted by 牧野眞一 at 2010年05月30日 14:17
牧野さま
反省を促すような文体で、私の文意が伝わっていないのでしたら当方の文章の書き方がまずいのであり本意ではありませんので、反省するのは私の方です。
申し訳ありません。
ただ、ひとつだけいわせて下さい。
現在の教育課程などでよく見かける光景。「子供さんが描く絵」の場合、子供は好きな配色で絵を描きます。場合によっては“青い太陽”を描くことがあります。それを単純に親や先生が「太陽は赤でしょ」とたしなめること、よくあります。
その子にとっては太陽は青く見えるのに「なぜ?赤でないといけないのか?」を考えさせる余地も与えず「太陽は赤」にしてしまう怖さがあります。
ひょっとしたらその子は視覚障害で青く見えたのかも知れないし、心理状況によって青く見えたのかも知れない。そういった事も考えずに「太陽は赤」。
実際には「白昼に堂々と」と表されるように昼間の太陽光線は「白」です。夕刻の夕焼けは「赤」の場合もあれば「朱」の場合もあれば「オレンジ」の場合もある。朝焼けの場合は青みがかった赤の時もある。皆既日食の時などは「黒」です。
月も同様。月光は「白」としますが、よくよく観察すると「青白い」時もありますし「血」の色に見える時もあります。
そういった現象や実際の観察を「その他」とし「太陽は赤」「月は白」と決めつけるのがどれほど怖いことか?そして、その感覚で絵画を鑑賞することの怖さ。絵画とは、かくも魅惑の表現の場でもあるのを知っていただきたかったのです。
“落ち穂拾いの精神”も「大地主が偉そうな振る舞いをせず、さりげなく・・・」とありますが、ではなぜ?「さりげなく」する必要性があったのか?大地の恵みを広く分かち合うのであれば「偉そうな振る舞いも何もなく、大地主が感謝の意を込めて片膝ついてこれをどうぞ」と差し出すのではないのか?
こんなことを中学生の頃、当時美術部員であった私は顧問に質問しました。
顧問は言いました。「そう。私にも分からないんです。でも、それでいいんです。自分で考え自分で調べ自分で答えを見つけて下さい。一緒に勉強しようか?」と逆に嬉しそうでした。
本当に「上から目線」で偉そうな発言。お許し下さい。
反省を促すような文体で、私の文意が伝わっていないのでしたら当方の文章の書き方がまずいのであり本意ではありませんので、反省するのは私の方です。
申し訳ありません。
ただ、ひとつだけいわせて下さい。
現在の教育課程などでよく見かける光景。「子供さんが描く絵」の場合、子供は好きな配色で絵を描きます。場合によっては“青い太陽”を描くことがあります。それを単純に親や先生が「太陽は赤でしょ」とたしなめること、よくあります。
その子にとっては太陽は青く見えるのに「なぜ?赤でないといけないのか?」を考えさせる余地も与えず「太陽は赤」にしてしまう怖さがあります。
ひょっとしたらその子は視覚障害で青く見えたのかも知れないし、心理状況によって青く見えたのかも知れない。そういった事も考えずに「太陽は赤」。
実際には「白昼に堂々と」と表されるように昼間の太陽光線は「白」です。夕刻の夕焼けは「赤」の場合もあれば「朱」の場合もあれば「オレンジ」の場合もある。朝焼けの場合は青みがかった赤の時もある。皆既日食の時などは「黒」です。
月も同様。月光は「白」としますが、よくよく観察すると「青白い」時もありますし「血」の色に見える時もあります。
そういった現象や実際の観察を「その他」とし「太陽は赤」「月は白」と決めつけるのがどれほど怖いことか?そして、その感覚で絵画を鑑賞することの怖さ。絵画とは、かくも魅惑の表現の場でもあるのを知っていただきたかったのです。
“落ち穂拾いの精神”も「大地主が偉そうな振る舞いをせず、さりげなく・・・」とありますが、ではなぜ?「さりげなく」する必要性があったのか?大地の恵みを広く分かち合うのであれば「偉そうな振る舞いも何もなく、大地主が感謝の意を込めて片膝ついてこれをどうぞ」と差し出すのではないのか?
こんなことを中学生の頃、当時美術部員であった私は顧問に質問しました。
顧問は言いました。「そう。私にも分からないんです。でも、それでいいんです。自分で考え自分で調べ自分で答えを見つけて下さい。一緒に勉強しようか?」と逆に嬉しそうでした。
本当に「上から目線」で偉そうな発言。お許し下さい。
Posted by タナカ at 2010年05月30日 15:17
タナカ様
再度の訪問、ありがとうございます。
決めつけをしてしまう、勝手な大人の常識は、時に自由な発想の芽を摘んでしまいますね。
ありがとうございました。
再度の訪問、ありがとうございます。
決めつけをしてしまう、勝手な大人の常識は、時に自由な発想の芽を摘んでしまいますね。
ありがとうございました。
Posted by 牧野眞一 at 2010年05月30日 15:44