2011年12月26日

源氏・平氏、合戦の痕跡が大阪に?!



今日は、大阪市立生涯学習センターに置いてあった冊子『いちょう並木12月1月合併号』の《おおさか歴史探訪 逆櫓の松跡 〜 大阪に残る数少ない源平合戦の痕跡 〜》を紹介致します。




来年のNHK大河ドラマは平清盛がテーマです。これにちなんで、今回は、大阪で源平合戦にまつわる話題を探してみました。

『平家物語』の「逆櫓の段」によれば、文治元年(1185)2月、源義経は四国に陣を構えた平氏を討つため、摂津の福島から四国の屋島を船で急襲しようとしました。義経群は船での戦いの経験が浅く、またその時は強風が吹いて海上が荒れていたこともあり、参謀役の梶原景時は、船をどちらの方向にも動かせるように、船首にも櫓をつけるべきと進言します。これを“逆櫓”といいます。これに対して義経は、最初から逃げる時のことを考えるのは武士のすることではないと反対しました。両者の意見は折り合わず、結局、義経は逆櫓をつけずに出陣しました。これに従ったのはわずか5艘だけであったといいますが、義経群は勝利をおさめたといいます。

福島区福島2丁目に“逆櫓の松跡”という石碑が建っています。義経と景時が論戦をしたのがこのあたりと推定されるとのことで、江戸時代の地誌である『摂津名所図会』に、この地に幹が蛇のような形をした樹齢千年を越える松が生えていて、“逆櫓の松”と呼ばれていたと記されています。逆櫓の話は人気があり、歌舞伎でもしばしば上演されています。忠実というよりはかなり脚色されているようです。

この松は明治になるころにはすでに枯れていたといいます。




※義経の「最初から逃げる時のことを考えるのは、武士のすることではない」に、男気を感じました。

このフロンティア・スピリッツ、私たちも大いに学ぶべき、ところですね。
  


Posted by makishing at 06:09Comments(4)